2008年04月08日

水俣から遠く離れて 1

080102_1449~01.JPG今は水俣に住むひとが昔よく行ったという下北沢のごはん屋さんに、足を運ぶ。
なるべく傘は持ちたくないからと怠けた身に、雨は容赦なく強くなってゆく。

ビル2階の扉をひくと、私のほかにはアメリカの医療制度についてご主人と語り合う男性がひとり、だけ。何杯めかのグラスを傾けながら話している。

奥でもない真ん中でもない気弱な席を確保して注文してしまうと、ホームページの作りかたや印象派の画集など、多種多様な本が雑多に並べられた本棚から、2冊を選んで席に戻る。
1冊は、農薬をふんだんに使用した飼料や果物を与えられ、手足や指のない状態で生まれた猿たちの写真集。
何ページか捲ると、ひとの両手の平に仰向けに乗った3ヶ月の猿のうつろな目にぶつかった。母猿の背にしがみつく手足をもたない小さな小さな猿。
みかん大豊作の年に余ったみかんが、猿山にも大量に振る舞われた。実の成った樹の下の草を食べた牛が倒れたというほど、農薬が使われたみかん。たぶん疑うこともなく躊躇なく食べた、その結果。

母猿は、骸へと変わり果てた我が子に乳を与えつづける。母の腕の中で、ほとんど骨になって、ぽっかりと開いたふたつの眼窩。

囚われたように見ていると目の前に、丁寧につくられたひじき炒めごはんとお味噌汁が出される。
小さな猿の姿が脳裏によぎり狭くなった食道に、噛みつぶした玄米を送ってゆく。

カウンターの話題は、この春の甲子園にうつっている。
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2008年04月03日

水俣リポート2日目 津田湘子

SN360128.JPG1月28日

目を覚ますと、外からの光は薄暗く。
結構な雨。

折りたたみ傘とか、何でいつも同じ後悔を繰り返すんだろう。
傘を買い、雨の水俣を自転車で走る。
昨日描いて貰った地図をしっかり頭の中に入れ。
薄暗い水俣、でももう不安はない。
この町には私が昨日出会った人々とこれから出会う人々が生活している。
そう思えたからだろうか。

肌寒い雨の中、ほっとはうすは静まりかえった周りから浮かび上がるように目の前に現れた。

左は綺麗でシンプルな作業所。
右のカフェは、今日はCLOSEの看板。

入ると、明かりこそ付いていても人気がなく、お休みの日に無理に押し掛ける形になってしまったことをとりあえず謝らなければという気持がいっぱいになった。
すると、奥の扉が横に開いて、中から一人の女性が現れた。
すぐに分かるような気は何故かしていた、でも本当に分かったのは後から考えると凄いことだったと思う。

とっさに謝った。

その女性、ほっとはうすの代表でいらっしゃる加藤さんは、私の謝る気持をよく世間にある「いえいえ」みたいなことで否定せず、変な言い方だが受け入れて下さった。
懐が広くて深い方だという印象。

と、突然たくさん話し始められた。「午後から韓国の方がいらっしゃいます。プログラムを一緒に見学すると良いと思うのですが…。それまで少しお勉強しておいた方が良いと思いますのでこっちで(喫茶室の方)ビデオを観て下さい」
プログラムを見学させてもらえるなんて夢にも思っていなかったし、そのうえビデオまで。
突然の訪問者にも100%以上のもてなしだった。
それが自然に出来てしまう人なのだ。
それだけで雨の寒いのなんか吹っ飛んだ。

「では午後の準備がありますから申し訳ないけれど後でまた」


目の前に、2時間では観切れないであろうビデオとDVD。
たくさんあったので、自分の興味を引いたものを観ようとした。
すかさず。
「これから観ると良いと思います。終わったらこれ。その次は…」
奥に入ったはずの加藤さんだった。
お忙しいのに絶えず気にかけて下さっている。


気がつくとお昼だった。
いや、一瞬だけ、気がつく時間があった。
一人の女性がお茶を出してくれたのだ。
ほっとはうすで働く女性であり、水俣病でいらっしゃるその方は、喫茶が開いていればとても美味しいコーヒーを皆さんに振る舞っていらっしゃるという。
感謝を述べると、その方は少しぶっきらぼうに見えるけど軽く会釈をして部屋から出ていった。
「お礼は言わんでも分かっとる」と言われた気がした。


「お昼はチャンポンで良いですか?」

そうか、もうお昼だった。

「奥の部屋にいらしてください」

言われて奥に行くと、つい先ほどまで見せて頂いていた数々の映像に出演されていた、ほっとはうすの皆さんがいた。
ほっとはうすに着いてから二時間後の初対面だった。
お休みの日なこともあり、全員はいらしてなかったが、外の雨を忘れるくらい温かくて賑やかな空間だった。

加藤さんが私のことを皆さんに紹介してくれて、皆さんも一人一人自己紹介をして下さった。
「さっきまでテレビで見てましたので不思議な気持です」
というようなことを言ったら笑われた。

チャンポンを食べながら(加藤さんは忙し過ぎてなかなか食べなくて皆に心配されていた)、言葉を交わす。
皆さんの私への眼差しは温かく、親戚の家に居るような不思議な気持になっていた。

お昼を食べ終ったら、皆で準備をする。
私もあまり役立たなかったけれど手伝った。
冗談を言い合いながら、準備をする。働く。
そう、『働く』。

映像を観て。今、この場に居て。さっきから「働く」という言葉が引っかかっている。

働く。




そうこうするうちにあっという間に韓国の方が来て、プログラムが始まった。

最初に加藤さんが挨拶をされたが、なにやら複雑そうだった。
ここには水俣と日本との歴史がある。更にそこに韓国と日本の歴史…。立ち位置の複雑さ…。
加藤さんはそのことをしっかり抱えながら一言一言を伝えているようだった。
ただ、受け取める側の年齢が若かったせいか、相手方はそこまで感じていたかは分からなかった。
でもその彼らの姿はちょっと前までの私かもしれない、と私はただ思った。

それから、四人の皆さんがご自分の歴史を一人一人話された。
流暢に上手く話す人のそれより、言葉は少なくてもずっとぐっと心に届くものだった。
最後に韓国の方々に一言どうぞという時にも、
「韓国に行きたいです」
と、笑顔で。

下手な外交より素晴らしいのではないだろうか。
ただただ尊敬。

プログラム後半は押し花を使ってしおりを作る内容だった。
しかし残念ながら私は時間切れでその場を後に。

「また絶対来ます」
そう言って。

そうだ、合間に素敵なことがあった。
プログラムが始まって、ガチガチの真面目顔で見学に臨もうとした私の前に突然コーヒーが出されたのだ。

さっきお茶を出して下さった女性。

せっかく来たお客に休みでもコーヒーば出さんと。

その真心が本当に本当に嬉しくて…。
喫茶の片隅で、しっかり頂いた。

そしたらガチガチだった何やらかんやらがほどけていくのが分かった。

私はただここに居よう。残された時間のギリギリのギリギリまで。
…ギリギリのギリギリまで本当に居たから、ほっとはうすを出てからの私の俊足ぶりは凄かった…と思う。


また来たいと本当に思った。
それが何よりの収穫だったのかもしれない。
また来たとき。
また何かに気付くのか。

hgを通して出会った水俣。
知らなかったことかもしれない。
知ってどう出来るものでもない。
でも知って良かったと思う。


そう思いながら水俣を後にした。
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2008年03月28日

水俣レポート ***風琴通信より転載いたします***

画像0018.jpg羽田から鹿児島まで2時間弱。水俣への直行バス、待つ事2時間、乗車時間2時間。

朝一の便で発ち、「水俣駅」という小さな看板の下に立った時には軽く午後の2時をまわっていた。



水俣駅。そこから垂直に伸びる道の突き当たりに、チッソ工場の正門がある。

けれど、国道沿いにはコンビニやファミレスが並び、工場は、それに埋もれる形で建っている。思ったほどの威圧感はない、と、思った。

駅でレンタサイクルを借り、ほっとはうすへ。

ほっとはうすは胎児性水俣病患者の方など、障がいを持つ人の共同作業所で、小さな喫茶店も併設している。

新しい作業所が新設され、そこへの引越し準備で今はバタバタしているとの事、「お茶だけでも・・・」と立ち寄ったのだが、結局、その日の残りをほっとはうすの方々と過ごすこととなった。その機会を与えてくださった施設長の加藤さんは本当に「ばたばた」とお忙しく、けれど「ほうっておくわけにはいきませんから」と、あっという間にほっとはうすの方々を紹介してくださり、あっという間に、その後の私の予定をたてて下さった。



まずは「この方の入れるコーヒーは絶品よ」とすすめられるがまま、喫茶「ほっとはうす」にてコーヒーをオーダー。確かに入れていただいたコーヒーはとてもおいしく、カップも、伝票のホルダーもかわいらしく。

コーヒーを入れてくださった彼女にカウンターごしに

「おいしいですね」と小さく声をかけ、しばし静かな時間が流れる。

寡黙そうな彼女に、思い切って

「お引越し、もうすぐですね」と、声をかけると、トツトツと、けれど、誇らしげに、どうやら彼女の管轄らしき新しい「厨房」と「食堂」について、それから、喫茶店はここに残るという事、つまり、彼女はこれから、とても忙しくなるのだ、ということを語られた。



その後ほっとはうすのメンバーの方に自転車で町を案内してもらう。

「水俣の町なら知らないところはない」という彼の背中を追いかけ、国道より1つ裏の路地を走る。それはつまりチッソ工場の外周で、すぐに私は「威圧感はない」と思った、その私の浅はかさに気づく。

その路地はどこまでもどこまでも続く。お堀のように河が流れ、鳥が泳いでいる。

やがて百間排水口へ。

かつてここからメチル水銀が流された。

「この排水が最初の段階で止まっていたら・・・」と、案内してくれた彼が言う

「僕の人生はまた違っていたものになっていたでしょうね」



昭和34年、チッソは原因が工場の廃液であることがわかっていたにも関わらず、その後9年間、その排水を流し続けた。

彼が生まれたのは30年代後半。それは、つまり、そういうこと。



けれど、その言葉は、「幸」とも「不幸」ともいう様子もなく、ただ「事実」として穏やかに語られる。

その穏やかさの前に、私は呆然とし、どう受け止め、どう処理しようと戸惑いながら、それでも、自転車でよかった、とにかくペダルをこぎ、遅れがちの私を気遣いながらふりむきふりむきゆっくり走る彼の後を追いかける。



そしてエコパーク。ヘドロと、水銀、魚たちの眠る埋立地。

広大なそして気持ちよく整備された敷地、その向こうに穏やかな、海。

その矛盾にまたしても戸惑う私に

「気持ちいいですね」と前を走る彼が声をかけてくれる。

その日は本当に風も太陽も気持ちのいい日で

「私、晴れ女なんです」

と、目一杯がんばって答えると

「僕も、かなり晴れ男です」

と、返される。

かなわない。気持ちよく“完敗”。



聞けば彼は将棋で県大会優勝の経験を持つ腕前とか。

「私、目先のことしか考えられないんです。だから将棋全然ダメです」

と言うと

「そう、将棋は先の先まで見通さないと。目先だけじゃダメですね」

と。

まさか、水俣でこんなお説教まで受けようとは。



彼は彼の人生をその努力で獲得し、自分の命にプライドを持っている。

ほんの1時間ほどのサイクリングで、何がわかったといえるものではないけれど、

きっとこのことは間違いないと思う。

そして、それは彼自身も言っていたことではあるが

「ほっとはうす」の存在によるものが大きいのだろう。



その、ほっとはうすの新しい家を、拝見させていただいた。

樹のにおいのする、完全バリアフリーのその家。

風と光が通るように、大きく開いた天窓、青いぐさの壁、子供たちがいつでも遊びに来れるようにと、通りに面した扉は大きく開かれている。

「呼吸する家と、呼んでいます」

そう、誇らしげに語る加藤さんの横顔。

「呼吸する家」

それは本当に、包み込むようにやさしく、しっかりと、建っている。



夜、ほっとはうすの方々と、飲む。

その場所で、たくさんの詩をもらい、ユーモアをもらい、そして何より、温かさをもらった。

私のような、こんな一夜の旅人に。



翌日、そんな彼らの言葉を反芻しながら、1人で町を巡る。

まわってもまわってもまわりきれない。あふれる記憶を携えた町。



最後にもう一度、エコパークに立ち寄り、海を見た。

穏やかで、でも、深く深くたくさんのものを内包する海。

それはそのまま、水俣、と言う町と、私がこのわずかな24時間の中で、出会った人たちを象徴しているかのようだった。



こんな、ほんのひと時すれ違ったかのような出会いで、一体、何がわかったかといわれれば、確かにそう、自信はない。けれど、「人生」とか「命」とか、それがどんなに愛しいものか、という事を教えてもらった気がする。

彼らと、そしてこの町に手を差し伸べられ、ようやく私は、入り口に、「hg」の入り口に立てたような気がする。



松岡洋子
posted by 「hg」ラボ at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 松岡洋子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月10日

水俣リポート1日目 津田 湘子

SN360121.JPG私の故郷で、私が生まれる前、多くの女性たちが「いたい、いたい」と言いながら亡くなっていった。そうだ。
そうだ、というのは、私はその頃この世にいなくて、それはたとえ私の生まれた土地で起こったことだったとしても、実体験として「知らない」ことだったからだ。
「hg」へ向けて本格的に動き始めた今年の初め。
私はまず地元のその地へ行ってみた。
理由は、特に誉められたところはない。やっぱりその土地に生まれたものとして恥ずかしい気がしたから、そんなところだった。
ところがあまりに年の初め過ぎて、収穫は図書館で貸し出されていそうな本をお借りするのみだった。
なんだか不甲斐ない感じがした。
でも。何だろう。感じるものは、あった。
言葉でたくさんは言い表せないけれども、たとえばイタイイタイ病の話を聞かせてもらえる所はないかと尋ねた時の私を見る、人の目。周りの態度。熱心な声。沈黙。
私が知らなくても、その時に生きていた人たちが今も影響を与えているということ。
その時に思った。
「知らなくても、まず行かなくては」

1月27日。
降り立った水俣駅の風景は曇りの薄暗さと冬の寒さが人気の無さを強調していたように思う。
お昼時に到着したのだが、駅前にあるパン屋さんは定休日だったし、見知らぬ土地だ、商店街がどこにあるのかすら分からない。
空腹も手伝って突然心細くなった。
駅で自転車を借りて、まずは水俣病資料館に向かう。
チッソの前を通る広めの道路をまっすぐ走る。
資料館はこちらと矢印が指す看板を見つけ、何となくほっとして曲がるとそこにはだだっ広い公園、遥か向こうに資料館…。
辿り着く前に空腹でどうにかなるなと思った私は公園内にあるレストランに入った。
そこでご飯を食べながら、今、自分がいる場所の下、そして見渡す限りのだだっ広い土地がかつては海であり、水俣病の歴史の中で犠牲になった魚たちがたくさんたくさん今もいることを思った。
何だか少し目まいを覚えるような感覚に襲われた。
後で訪れる資料館で私はエコパーク(私が先ほどから公園といっている今いる場所)には、自分の代わりに死んでいった魚たちがたくさん埋められていてとても行けないと語られていた言葉を目にする。
当時を見てきた人々には何倍も何百倍もの思いがそこにいつまでもあるのだろう。
無かったことになんかならない。
そう思った。

お会計の前に次の日に訪問しようと思っていた「ほっとはうす」の場所を尋ねた。
するとこの先のアトリエ兼事務所に詳しい人が居るから聞いてみるといいと言われた。

訪れたアトリエでは、控え目に見えるけれども芯の強そうな女性が迎えてくれた。
その女性はほっとはうすの理事をされていて、すぐに地図を描いて下さった。
ふと、当時の様子が聞きたくなって、尋ねた。
次から次に出てくる質問に、嫌な顔をせず、でも時々遠くを見つめながらお話下さった。
海のこと、魚のこと、ヘドロのこと、そして何より亡くされた親族のこと。
その静かながら、当時の光景を見たものにしか出せない声で語られる話は、時に私にもその光景が見えるかのような錯覚を覚えさせた。
後で聞くと水俣病資料館で語りべさんをされているとのことだった。
帰り際に、そのアトリエで作成されている付近の海岸に流れつくガラス瓶や破片を使った工芸品を購入した。
忘れないように。

水俣病資料館は丘の上にある。
丘に登ると、青い海と、草木の緑が鮮やかに目に飛び込んできた。
ほんの一時明るくなった空を悠々と舞う鳶。

後ろを振り向くと、エコパークが見渡せる。
資料館の付近には私しかいない。あとは鳶。
静か過ぎる。
海が見渡せる場所に座って、暫く海を眺めた。

恥ずかしながら事前の綿密な予習等をあまりせずに訪れた水俣だったが、今目の前に広がる風景が何よりの情報として視覚や聴覚にドスンと入ってくるのを感じた。
資料館に足を踏み入れたのは結局15時前。駅に降り立ってからちょっと噛み締め過ぎたかな。でも無駄ではないんだよな。
資料館に訪れる人は正直まばらだった。
でも私も含め皆資料に見入っていた。
私が特に見入ってしまったのはお母さんのお腹の中で栄養とともに胎盤を通過する有機水銀の影響を受けてしまった胎児性水俣病の方の本当に本当に綺麗な瞳。先日お亡くなりになった杉本栄子さん一家の展示。まだ危険だったにも関わらず安全宣言の出された魚たちを家に、両手にぐわしと掴んで持ち帰るお母さんたちの後ろ姿。
誰が悪いとかそういうことじゃなくて、この土地の人々がいかに海を愛して共に生きていたかということがひしひしと伝わってくる展示だった、と同時にやっぱり起こってしまったことへの悲しみと、複雑な思いがいっぱいになり正直処理し切れなかった。
グチャグチャしたまま資料館を出ると辺りがまた曇ってきていた。
この数時間で手にしたたくさんのこと。
何だか飽和状態で、自転車に乗れずにうずくまってしまった。
時間はまだあるけれど、感覚が限界というか、何かそんな感じだった。
何とか力を振り絞って宿泊するホテルまで辿り着き、少し横になる。
横になっても感覚が冴えて眠ることはできなかった。
もそっと起きて、ビジネスホテルの小さな窓から薄暗い空の下に広がる水俣の町を眺めた。
決して大きくはない町なのだ。
この限られたエリアでは有り得ないじゃないかという数の、人や猫や魚や鳥や、尊い命が奪われた。
不謹慎かもしれないけれど、そう思ったら地中に引きずられるような気分だった。

気分が沈み過ぎている気がして、ふと外に出て現在の水俣に触れようと思い立った。
外は今にも雨が降りだしそうで寒くて、防寒をこれでもかとして出た。
ホテルを出ると、さっきはきちんと気付かなかったけれど周りは元々商店街だったような景色だった。
チッソの水俣、と呼ばれた時代を思った。
今は正直人気がなく、とにかく誰かに会いたくて自転車を走らせた。
暫くすると突然たくさんの人が出入りするお店が現れた。
ほっとしてお店に入り、久しぶりの人気が嬉しくて、店内を隅から隅まで見てしまった。
そうすると、突然誰かに話しかけられた。
びっくりして顔をあげるとドキッとするような素敵な笑顔が私に向けられていた。
店員さんのようだったが何故だかその人の言葉は私に聞き取り辛かった。

どうやらその人は軽度の水俣病らしかった。

素晴らしい笑顔で接客をされていた。

その人に会って、急に目の前が明るくなった気がした。
そうだ。
資料館を出た時、きっと私はおこがましくも自分に何が出来るんだろうとか考えていたのだと思う。
でもその人を見て晴れた。
私に出来ることとかじゃなくて、忘れないこと、私が今この土地にいてこの土地の人に会って、それこそが大切なのだと。
その人に近くにスーパーはありませんか、夕食を買いたいのですと尋ねた。
今度はその人の言葉が聞き取れた。

明日はほっとはうす。
加藤さんに10時に来て下さいと言われている。
押し掛けだった。
遅れるわけには死んでもいかなかったから、とにかく早く寝た。
posted by 「hg」ラボ at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 津田湘子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月08日

hgラボとは

俳優も俳優たちなりにきちんと向かい合わねばならない題材です。そのために各自がいろいろなことを行っています。水俣に学び少しでも知を蓄積していけるよう、訪れた水俣のこと、勉強会のこと、読んだ本のこと、考えたことなど、こちらでレポートしてまいります。
posted by 「hg」ラボ at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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